「だったら私はリエじゃない。リエなんて最初からいなかったんだ。だって私は双子なんかじゃない、一人娘だったんだから。そうよ、私はタカコ、タカコなんだわ」
ヨシロウが大きくうなずきました。
「やっと思い出してくれたようだね。そう、お前は、あの屋上から飛び降りて死んでしまったタカコなんだ。リエなんて妹は最初から存在していなかったんだ」
ヨシロウがそう言った瞬間、これまでリエだっタカコはすべてをはっきりと思い出したのです。
サエコと連れ子のユミコにいじめられていたのもタカコ。
婚約していた恋人をユミコにとられたのも、階段から突き落とされてお腹の子を流産したのも、そしてあのビルの屋上から飛び降りて自殺したのも私タカコ。
「全て夢だったのね。愛する夫も子供たちも、…」
ヨシロウ「お前はそれを選んだんだ。もう一度やり直すことを」
タカコはビルから飛び降りて命を失ってから、ここに来たのです。
そこは自分が埋葬されたお墓でした。
しかしタカコが目覚めたときそこにはお墓なんてものはありませんでした。死んだ人の魂にはお墓なんて必要なかったからです。
青い空と緑色の芝生はどこまでも続く場所、そこは死んだ人にとっては次の世界への入り口でした。
次の世界と言う言葉にはいろいろな意味があります。ある人には天国であり、ある人には地獄です。
その次の世界の入り口に立った人は、自分がどちらに行くのかはその人にはわかりませんでした。それはその人がこれまで生きてきた人生によるのです。
タカコは決して地獄に落ちるような悪人ではありませんでしたが。人生の苦しみに負けて死ぬことを選んでしまいました。
人の命を奪ってしまった人は天国に行くことができません。それは自分の命でも同じです。
しかし、自殺した人には1つの救済の道がありました。
それが、別の人間として生まれ変わり、自分が自殺したのと同じ苦しみをもう一度受けることでした。
別の人として生まれ変わるのですから、それまでの自分の記憶は消されてしまいます。
そして同じ試練を受けて、もしそれでも死ぬことを選べば、天国に行くことができません。
しかし、苦しみに耐え生きることを選べば、天国への扉が開かれるのです。
自殺してここに来たタカコは、そのことを先に死んでしまった父親のヨシロウから聞いていたのです。
ヨシロウはタカコを次の世界へ案内する役目を負っていました。
すべて死んだ人を次の世界に導くのは、先に死んでしまった親族です。決して名前も知らない天使や死神では無いのです。
だってその方が、初めて死んだ人?にとってみれば死神なんかよりはるかに安心できるでしょう?
自殺してここに来たタカコは父親のヨシロウから次の世界に行く条件を教えられたのです。
そして彼女はもう一度やり直してみることを選んだのです。
それで、それまでのタカコの記憶は全て消され、新たにリエという全く別人に生まれ変わったのです。
そしてリエとなったタカコは、その新しい人生で死ぬことを選ばなかったので、天国への扉を開くことができたのです。
しかしそれはタカコにとって決して心から喜べるものではありませんでした。
「でも、ひど過ぎる。苦しすぎるわ。私は確かに生きる方を選んだ。そして考えられないような幸せを得た。なのに、それが夢だったなんて」
「お前がもし、本当の人生で死ぬことを選ばなかったら、あの家族といつまでも一緒に暮らすことができただろう。でもお前は生きることを選ばなかったので、あの幸せを得る機会を永遠に失ってしまったのだ」
タカコは不思議に思った。
「だってあれは夢だったんでしょう。覚めてしまえばとても悲しい夢だけど、現実の事では無いんでしょう?」
「そうじゃないんだよタカコ。君と出会った夫、生まれた子供たち。あの人たちは君が生きていれば本当に出会い、本当に生まれてきた人たちなんだよ」
タカコは驚きました。あの出来事は、あの人々は夢なんかじゃなくて現実に存在していると言うのでしょうか?
タカコはヨシロウにすがりつきました。
「あの家族は現実の家族なの? だったら教えて、どうしたらあの人たちにもう一度会えるの?」
「会えないだろう、もう二度と。もし会えたとしても彼らはお前の事は何も知らないだろう。あの人々はお前が生きていれば会うことができて結婚してお前を母として生まれてきたであろう人々なんだよ。」
「でもリエが自分の人生を断ち切ってしまったたので、彼らはもう二度とお前と会うことも、お前から生まれてくることもない。残酷なことを言うようだが、彼らは別の人と結婚し別の人を母とし、それぞれ別の家族の一員として暮らしている。」
「そんな!」
タカコは悲しみの叫び声をあげ泣き崩れました。
「ひどいひど過ぎる。苦しすぎるわ。これじゃ私が自殺したときよりはるかに大きな苦しみじゃないの」
泣き叫ぶタカコにヨシロウは優しく言いました。
「人は自殺をしてもその受けていた苦痛から逃れることができないし、生きていれば受けていたであろう大きな幸せも決して得ることができないのだよ」
「そんなことわかんないじゃない。自殺を止めて生き続けたからってその人が幸せになるか不幸になるかなんて誰にもわからないよわ」
「その通りだよ。人が不幸が不幸に幸せになるかなんて誰にもわからない。あの夢の家族は過ぎてしまえば1つの夢だったかもしれない。
しかし人は生きれば、幸せになる機会も不幸になる機会もいつまでもある。途中で死ぬ事はその機会を投げ捨ててしまうことなんだ。」
タカコはようやく理解しました。自分が自殺したことで失ったものが何であるかを。
「苦しかったかもしれない。しかしお前はその苦しみを通して、自分の弱さを乗り越え、罪を悔い改めることができたんだ」
そしてヨシロウはとても優しい眼差しをタカコに向けて言った
「さぁお前のためにすでに天国の扉は開いている。タカコさぁおいで」
タカコはあたりを見回しました。そこには緑と芝生と青い空がどこまでも続くだけでした。
「でも何もないじゃない。扉もドアもどこにも」
「上を見てごらん」
タカコは空を見上げた。
それは不思議な空だった。空はどこまでも青くそこには雲ひとつなく太陽さえも輝いていなかった。
その中に小さな丸いリングがあった。それは白く輝いていた。
そのリングはタカコが見上げているうちにだんだんと大きくなり、そのリングの中に別の世界があった。そこには大勢の人たちがいた。
しかしその多くの男女は空中の中にいるのに落ちてくる事はなかった。彼らはとても高いところから見下ろしているようだったが、タカコにはそのすべての人間の顔を一人一人見分けることができた。
生きている世界では遠く離れた人間の表情を見分けることなど決してできないが、この世界ではできるのだ。
彼らは皆微笑んでいた。光輝いているような笑顔だった。
その中に特別な女性がいた。たかこはその女性のを知っていた。
しかし不思議に思った。たかこは生きている世界でその女性の顔を見た覚えがなかったからだ。
でも「あれはお母さんね? 私を産んで幼い時に死んでしまったお母さんなのね?」
タカコはその女性が自分の母親であることがはっきりとわかった。
彼女の幼い頃に死んでしまい、生きているときには忘れてしまっていた顔だったのに
「死んでしまった人間には、どのような記憶喪失もないからね」
ヨシロウがそう教えてくれた。
あのリングの中から見下ろしている顔は、みんなたかこを愛してくれた人々だけだった。
「そうかわかったわ。あそこが天国なの?」
「憎しみや怒りや汚れというものが全くない世界。愛と美といつくしみだけがあって、それがいつまでも続く世界だね」
ヨシロウからそう教えられた瞬間、たかこは自分も早くその世界の中に入りたいと思いました
しかしさっきまで一緒だった家族に対して大きな未練もありました。
「お前は、もうリエではなくタカコなのだよ
。お前はこれからタカコとしての次の世界での生活が始まるのだ」
ヨシロウがそういった瞬間、タカコはリエとしてのすべての記憶を失ってしまいました。そして自分が自殺したことも心の中からなくなってしまったのです。
ヨシロウはこうつぶやきました
「心から償った罪は消えてしまうんだ。自分の心の中からもね」
タカコが不思議そうな顔をしてヨシロウを見つめました。
「償った罪って何のこと? 私何か悪い事したかしら?」
もうタカコの心の中にはリエとしての思いでも自分が自殺したときの苦しみも、家族を失った悲しみも何もかも覚えていないようでした。
「さぁおいで」
ヨシロウが娘であるたかこの手を取りました。たかこはにっこりと笑いました。その顔はこの世の苦しみを全て洗い流された喜びに溢れていました。
2人はあの大きな光のリングの中に吸い込まれていきました。
そして2人を飲み込むと光のリングは大変小さくなりやがて閉じてなくなってしまいました。
すると今まで青い色だけだった大空にもくもくと白い雲が湧き上がってきました。
緑の芝生にはたくさんの墓石が戻っています。
の入り口は次の世界へのまた入り口は、この世の霊園に戻ったのです。
終わり。