風ぐるま 1

 

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「何でこんな目に合うのよ!?私もう死んでるのよ!」

澄子(享年55歳)は絶叫した。

 

無理はなかった。

 

そのときの澄子は上下左右が全く分からない真っ暗な空間の中を猛スピードで疾走していたのだ。

 

澄子は自分が急激に移動していることだけは理できた。

しかし、落下しているのか上昇しているのかわからなかった。こんな恐ろしいことはない。

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澄子は悲鳴を上げ続けた。死んだ人間は呼吸をしないので、澄子はいつまでも途切れることなく悲鳴を上げ続けることができた。まるでソプラノのキーをずっと押され続けているオルガンのように澄子は悲鳴を上げ続けた。

 

澄子は自分が死んでいることは知っていた。

 

彼女が最初に目を覚ましたのは病院だった。傘下の児童養護施設を視察訪問している時に心臓発作で倒れたのだ。

 

医師がベットに横たわる澄子の脈を確認しながら「ご臨終です」と宣言していた。

 

その光景を澄子自身が見下ろしていた。

彼女は臨死体験をしていたのだ。

 

不思議とショックはなかった。

むしろ、

「死んでしまったらさくら堂の栗まんじゅうをもう食べられないかもしれない」

などとヘンなことを考えていた。

 

病院から葬式会場に至るまで澄子は自分の遺体にユラユラと付き添っていた。

 

葬儀会場で澄子は自分の棺のワキにひざまずいた。その姿勢のまま少しだけ浮き上がって花に飾られた自分自身の亡骸を眺めていたのだ。

「納棺師もっと綺麗に死化粧してくれればいいのに」

澄子は文句を言いながら棺の中の頬を撫でようとしたができなかった。澄子の指は遺体の頬をすりぬけてしまったのだ。

「やっぱり栗まんじゅうは無理そうね」

             

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葬儀会場は教会堂だった。パイプオルガンの伴奏と聖歌隊のコーラスを背景に壇上の神父様がお祈りをささげていた。

 

しかし、神父様も喪服の参列者たちも、棺の遺体そばのもう1人の澄子には気づいていなかった。

 

澄子は気に入らなかった。

自分が死んだというのに、病院に駆けつけた人間も、葬式の参列者もあまりにも少なかったからだ。

 

澄子は全国的に展開する児童養護施設の経営者兼理事長なのだ。

これまで虐待や貧困や病気に苦しむ多くの子供たちを助けてきた。そのために働く部下たちもたくさんいる。

なのに自分のために泣いてくれる人間がこんなにも少ないなんて。

 

しかし、澄子をもっと驚かせることがあった。

葬式だというのにほとんどの参列者は、なぜか嬉しそうだったのだ。

 

「あー、清々したわ。これで施設も風通しが良くなったわ」

「子供たちもクリスマスが来たみたいに喜んでました」

それは澄子の女秘書と保育園の園長だった。2人は澄子からはかなり離れた座席でヒソヒソと話していたが、澄子にははっきりと聞こえた。どうやら死人は感覚が敏感になるらしい。地獄耳とはよく言ったものだ。

 

澄子は怒りにふるえた。

 

それは、彼女たちのヒソヒソ話や少ない参列者より何より自分自身に対しての怒りだった。

「私ってそんなに人望がなかったの? いない方が風通しが良くなるなんて、そんなに嫌われていたの? 子供達まで喜んでるって?私あんなに尽くしてきたのに 」

 

そのとき足元でカタンという音がした。澄子が見ると自分の真下の床に不思議な穴が開いていた。穴の底は真っ暗で何も見えなかった。

「何よ? なんでいきなりこんなところに穴が開くのよ? まぁ、私は幽霊みたいに浮いてるからおっこちゃしないけどさ」

その言葉が終わらないうちに、澄子はあっという間にその穴に吸い込まれてしまったのだ。

 

カタンと音がして穴はすぐに塞がってしまった。そこにいた人は誰も気が付かなかった。

 

そして、澄子はあのワケの分からない暗闇の中て絶叫することになってしまったというわけだ。

 

しかし、不思議な暗闇は長くは続かなかった。

まるで闇の中を疾走する絶叫マシーンがいきなり光の世界へ飛び出すように澄子は転げ落ちた。

その時、誰かと激しく衝突した。

 

不思議なことである。だって、死んでしまった人間にはもう肉体なんてものはないのだ。いわば幽霊になのだ。

幽霊が誰かにぶつかって衝撃を受けるなんてことがあるだろうか?

さっきは自分の体さえ撫でることができなかったではないか。

 

澄子がフラりと立ち上がった。死んでから初めて経験する激しい衝撃に彼女は戸惑っていた。すると声があった。

 

「死んでしまった人同志は、ぶつかったり触れ合うことができるんだよ。生きてる人の体は通りぬけてしまうけどね。でも、怪我もしないし、痛くもないでしょう。まあ、激しいインパクトは受けるけどね」

澄子は驚いて声のする方を見た。

スキンヘッドの長いローブのような着物をまとった子供がそこにいた。

まるでマンガに出てくる一休さんのようだった。

どうやら澄子が衝突したのはこの不思議な小坊主に違いない。

「あんた誰?、さっきから死んだ人間とか言ってるけど、あんた死んだ人間なの? 」

小坊主はニッコリとうなずいた。

その瞬間、澄子はあのものすごく長い悲鳴をあげながら回れ右をしてそこから逃れようとした。

 

でも彼女はすぐに何かに激しくぶつかりまたも悲鳴を上げて後ろにひっくり返ってしまった。

「心配しないで、おばさんだってどうせ幽霊なんだから」

小坊主のその一言に、澄子は少し落ち着くことができた。

「そうか、私死んでたんだ。すっかり忘れてた。でも、幽霊同士がぶつかり合うことはわかったけど、今の衝突は一体何なのよ?」

そして確かめるように、澄子は辺りを見回して驚いた。

「何これ?」

澄子と小坊主の周りは直径10メートルほどの丸い壁に囲まれていた。

その丸い壁は青白い光をうっすらと放っていた。澄子が見上げると、その壁は上空どこまでも続いていて、終わりが見えなかった。澄子はまるで巨大な煙突か井戸の中にでも落ち込んだような気分になった。

「ちょっとここなんなのよ?」

「このチューブはね、天国と地獄とどちらかにしか行けない入り口なんだよ」

「天国と地獄の入り口?」

「死んだ人は大抵ここに来てどっちかの世界に行くんだ。でも、誰でも死ぬことは初めての経験だからどうしていいかわからないでしょ? お母さんだって初めてだよね?」

澄子は頷くしかなかった。

「だから、死んだ人が迷わないために僕みたいな案内人が使わされるんだよ」

「案内人?あなた、どう見たって10歳くらいにかにしか見えないわ、そんな子供が案内人ですって?」

「おばさん、生きていた世界の常識はここでは全く通用しないんだよ。

この世界の案内人はね、子供どころか赤ん坊にだって務まるんだ。だから心配しないで。僕の名前はナナシっいうんだ。よろしくね、おばさん」

「おばさんおばさんって失礼な子供ね。それに何?名前がナナシって?なんか名無しの権兵衛みたいな名前ね。

私も施設に来た子供に名前を付けてあげたこと何度もあったわ。

だってさ母親が平気で子供を棄てる世の中だよ。名前どころか、国籍も分からない子供が何人もうちの施設に放り込まれたわ。

その子達に国籍と誕生日と名前を付けてあげるのが私の仕事だったけど、ナナシなんてセンスのない名前1度だってつけたことないわ。あんたの両親、どうかしてたんじゃないの?」

澄子は明らかにこのナナシという案内人を馬鹿にしていた。ナナシはそんなことは一向に気にしていないようだった。

 

「施設の子供たちに名前をつけたって言ったけど、おばさんは自分の子供に名前をつけたことはないの?」

澄子はギクリとした。そういう質問はいろんな意味で、澄子はされたくなかった。

澄子は生涯独身だったのだ。そのために、自分の子供を産んだことも育てたこともなかった。

「そんなことより、さっさと私を案内しなさいよ。ナナシくんは立派な案内人なんでしょう?」

「そうだけど、おばさんはさ、自分はどっちに行けると思う? 天国と地獄?」

「そりゃ天国に決まってるじゃない」

「自信満々だね。どうしてそう思うの?」

 

「やっぱりあんたは子供ねー。そんなことちょっと考えたらわかるじゃない。私はねー、若い時から、かわいそうな子供たちを助けるために人生のすべて、お金も時間も捧げてきたのよ。そんじょそこらの平々凡々と生きてた人間とは全然違うのよ。

それにね、私はバカじゃないの。このヘンテコリンな、tube見てたら誰だってわかるわよ。だって、このチューブ上はどこまでも伸びてるわ。きっと天国に繋がっているってのは一目瞭然じゃない。でも、地獄の方には全然繋がってないじゃない。井戸の底みたいに床でしっかり塞がってるわ、地獄へなんか落ちようがないじゃないの」

その瞬間2人が立ってい床がガラガラと崩れ落ちた。穴の底に落ちていった崩れた瓦礫はいつまでたっても下に届く音は聞こえなかった。

風ぐるま 1

 

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「何でこんな目に合うのよ!?私もう死んでるのよ!」

澄子(享年55歳)は絶叫した。

 

無理はなかった。

 

そのときの澄子は上下左右が全く分からない真っ暗な空間の中を猛スピードで疾走していたのだ。

 

澄子は自分が急激に移動していることだけは理できた。

しかし、落下しているのか上昇しているのかわからなかった。こんな恐ろしいことはない。

f:id:ezawam:20210313205607j:plain

澄子は悲鳴を上げ続けた。死んだ人間は呼吸をしないので、澄子はいつまでも途切れることなく悲鳴を上げ続けることができた。まるでソプラノのキーをずっと押され続けているオルガンのように澄子は悲鳴を上げ続けた。

 

澄子は自分が死んでいることは知っていた。

 

彼女が最初に目を覚ましたのは病院だった。傘下の児童養護施設を視察訪問している時に心臓発作で倒れたのだ。

 

医師がベットに横たわる澄子の脈を確認しながら「ご臨終です」と宣言していた。

 

その光景を澄子自身が見下ろしていた。

彼女は臨死体験をしていたのだ。

 

不思議とショックはなかった。

むしろ、

「死んでしまったらさくら堂の栗まんじゅうをもう食べられないかもしれない」

などとヘンなことを考えていた。

 

病院から葬式会場に至るまで澄子は自分の遺体にユラユラと付き添っていた。

 

葬儀会場で澄子は自分の棺のワキにひざまずいた。その姿勢のまま少しだけ浮き上がって花に飾られた自分自身の亡骸を眺めていたのだ。

「納棺師もっと綺麗に死化粧してくれればいいのに」

澄子は文句を言いながら棺の中の頬を撫でようとしたができなかった。澄子の指は遺体の頬をすりぬけてしまったのだ。

「やっぱり栗まんじゅうは無理そうね」

 

葬儀会場は教会堂だった。パイプオルガンの伴奏と聖歌隊のコーラスを背景に壇上の神父様がお祈りをささげていた。

 

しかし、神父様も喪服の参列者たちも、棺の遺体そばのもう1人の澄子には気づいていなかった。

 

澄子は気に入らなかった。

自分が死んだというのに、病院に駆けつけた人間も、葬式の参列者もあまりにも少なかったからだ。

 

澄子は全国的に展開する児童養護施設の経営者兼理事長なのだ。

これまで虐待や貧困や病気に苦しむ多くの子供たちを助けてきた。そのために働く部下たちもたくさんいる。

なのに自分のために泣いてくれる人間がこんなにも少ないなんて。

 

しかし、澄子をもっと驚かせることがあった。

葬式だというのにほとんどの参列者は、なぜか嬉しそうだったのだ。

 

「あー、清々したわ。これで施設も風通しが良くなったわ」

「子供たちもクリスマスが来たみたいに喜んでました」

それは澄子の女秘書と保育園の園長だった。2人は澄子からはかなり離れた座席でヒソヒソと話していたが、澄子にははっきりと聞こえた。どうやら死人は感覚が敏感になるらしい。地獄耳とはよく言ったものだ。

 

澄子は怒りにふるえた。

 

それは、彼女たちのヒソヒソ話や少ない参列者より何より自分自身に対しての怒りだった。

「私ってそんなに人望がなかったの? いない方が風通しが良くなるなんて、そんなに嫌われていたの? 子供達まで喜んでるって?私あんなに尽くしてきたのに 」

 

そのとき足元でカタンという音がした。澄子が見ると自分の真下の床に不思議な穴が開いていた。穴の底は真っ暗で何も見えなかった。

「何よ? なんでいきなりこんなところに穴が開くのよ? まぁ、私は幽霊みたいに浮いてるからおっこちゃしないけどさ」

その言葉が終わらないうちに、澄子はあっという間にその穴に吸い込まれてしまったのだ。

 

カタンと音がして穴はすぐに塞がってしまった。そこにいた人は誰も気が付かなかった。

 

そして、澄子はあのワケの分からない暗闇の中て絶叫することになってしまったというわけだ。

 

しかし、不思議な暗闇は長くは続かなかった。

まるで闇の中を疾走する絶叫マシーンがいきなり光の世界へ飛び出すように澄子は転げ落ちた。

その時、誰かと激しく衝突した。

 

不思議なことである。だって、死んでしまった人間にはもう肉体なんてものはないのだ。いわば幽霊になのだ。

幽霊が誰かにぶつかって衝撃を受けるなんてことがあるだろうか?

さっきは自分の体さえ撫でることができなかったではないか。

 

澄子がフラりと立ち上がった。死んでから初めて経験する激しい衝撃に彼女は戸惑っていた。すると声があった。

 

「死んでしまった人同志は、ぶつかったり触れ合うことができるんだよ。生きてる人の体は通りぬけてしまうけどね。でも、怪我もしないし、痛くもないでしょう。まあ、激しいインパクトは受けるけどね」

澄子は驚いて声のする方を見た。

スキンヘッドの長いローブのような着物をまとった子供がそこにいた。

まるでマンガに出てくる一休さんのようだった。

どうやら澄子が衝突したのはこの不思議な小坊主に違いない。

「あんた誰?、さっきから死んだ人間とか言ってるけど、あんた死んだ人間なの? 」

小坊主はニッコリとうなずいた。

その瞬間、澄子はあのものすごく長い悲鳴をあげながら回れ右をしてそこから逃れようとした。

 

でも彼女はすぐに何かに激しくぶつかりまたも悲鳴を上げて後ろにひっくり返ってしまった。

「心配しないで、おばさんだってどうせ幽霊なんだから」

小坊主のその一言に、澄子は少し落ち着くことができた。

「そうか、私死んでたんだ。すっかり忘れてた。でも、幽霊同士がぶつかり合うことはわかったけど、今の衝突は一体何なのよ?」

そして確かめるように、澄子は辺りを見回して驚いた。

「何これ?」

澄子と小坊主の周りは直径10メートルほどの丸い壁に囲まれていた。

その丸い壁は青白い光をうっすらと放っていた。澄子が見上げると、その壁は上空どこまでも続いていて、終わりが見えなかった。澄子はまるで巨大な煙突か井戸の中にでも落ち込んだような気分になった。

「ちょっとここなんなのよ?」

「このチューブはね、天国と地獄とどちらかにしか行けない入り口なんだよ」

「天国と地獄の入り口?」

「死んだ人は大抵ここに来てどっちかの世界に行くんだ。でも、誰でも死ぬことは初めての経験だからどうしていいかわからないでしょ? お母さんだって初めてだよね?」

澄子は頷くしかなかった。

「だから、死んだ人が迷わないために僕みたいな案内人が使わされるんだよ」

「案内人?あなた、どう見たって10歳くらいにかにしか見えないわ、そんな子供が案内人ですって?」

「おばさん、生きていた世界の常識はここでは全く通用しないんだよ。

この世界の案内人はね、子供どころか赤ん坊にだって務まるんだ。だから心配しないで。僕の名前はナナシっいうんだ。よろしくね、おばさん」

「おばさんおばさんって失礼な子供ね。それに何?名前がナナシって?なんか名無しの権兵衛みたいな名前ね。

私も施設に来た子供に名前を付けてあげたこと何度もあったわ。

だってさ母親が平気で子供を棄てる世の中だよ。名前どころか、国籍も分からない子供が何人もうちの施設に放り込まれたわ。

その子達に国籍と誕生日と名前を付けてあげるのが私の仕事だったけど、ナナシなんてセンスのない名前1度だってつけたことないわ。あんたの両親、どうかしてたんじゃないの?」

澄子は明らかにこのナナシという案内人を馬鹿にしていた。ナナシはそんなことは一向に気にしていないようだった。

 

「施設の子供たちに名前をつけたって言ったけど、おばさんは自分の子供に名前をつけたことはないの?」

澄子はギクリとした。そういう質問はいろんな意味で、澄子はされたくなかった。

澄子は生涯独身だったのだ。そのために、自分の子供を産んだことも育てたこともなかった。

「そんなことより、さっさと私を案内しなさいよ。ナナシくんは立派な案内人なんでしょう?」

「そうだけど、おばさんはさ、自分はどっちに行けると思う? 天国と地獄?」

「そりゃ天国に決まってるじゃない」

「自信満々だね。どうしてそう思うの?」

 

「やっぱりあんたは子供ねー。そんなことちょっと考えたらわかるじゃない。私はねー、若い時から、かわいそうな子供たちを助けるために人生のすべて、お金も時間も捧げてきたのよ。そんじょそこらの平々凡々と生きてた人間とは全然違うのよ。

それにね、私はバカじゃないの。このヘンテコリンな、tube見てたら誰だってわかるわよ。だって、このチューブ上はどこまでも伸びてるわ。きっと天国に繋がっているってのは一目瞭然じゃない。でも、地獄の方には全然繋がってないじゃない。井戸の底みたいに床でしっかり塞がってるわ、地獄へなんか落ちようがないじゃないの」

その瞬間2人が立ってい床がガラガラと崩れ落ちた。穴の底に落ちていった崩れた瓦礫はいつまでたっても下に届く音は聞こえなかった。

風ぐるま 1

 

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「何でこんな目に合うのよ!?私もう死んでるのよ!」

澄子(享年55歳)は絶叫した。

 

無理はなかった。

 

そのときの澄子は上下左右が全く分からない真っ暗な空間の中を猛スピードで疾走していたのだ。

 

澄子は自分が急激に移動していることだけは理できた。

しかし、落下しているのか上昇しているのかわからなかった。こんな恐ろしいことはない。

澄子は悲鳴を上げ続けた。死んだ人間は呼吸をしないので、澄子はいつまでも途切れることなく悲鳴を上げ続けることができた。まるでソプラノのキーをずっと押され続けているオルガンのように澄子は悲鳴を上げ続けた。

 

澄子は自分が死んでいることは知っていた。

 

彼女が最初に目を覚ましたのは病院だった。傘下の児童養護施設を視察訪問している時に心臓発作で倒れたのだ。

 

医師がベットに横たわる澄子の脈を確認しながら「ご臨終です」と宣言していた。

 

その光景を澄子自身が見下ろしていた。

彼女は臨死体験をしていたのだ。

 

不思議とショックはなかった。

むしろ、

「死んでしまったらさくら堂の栗まんじゅうをもう食べられないかもしれない」

などとヘンなことを考えていた。

 

病院から葬式会場に至るまで澄子は自分の遺体にユラユラと付き添っていた。

 

葬儀会場で澄子は自分の棺のワキにひざまずいた。その姿勢のまま少しだけ浮き上がって花に飾られた自分自身の亡骸を眺めていたのだ。

「納棺師もっと綺麗に死化粧してくれればいいのに」

澄子は文句を言いながら棺の中の頬を撫でようとしたができなかった。澄子の指は遺体の頬をすりぬけてしまったのだ。

「やっぱり栗まんじゅうは無理そうね」

 

葬儀会場は教会堂だった。パイプオルガンの伴奏と聖歌隊のコーラスを背景に壇上の神父様がお祈りをささげていた。

 

しかし、神父様も喪服の参列者たちも、棺の遺体そばのもう1人の澄子には気づいていなかった。

 

澄子は気に入らなかった。

自分が死んだというのに、病院に駆けつけた人間も、葬式の参列者もあまりにも少なかったからだ。

 

澄子は全国的に展開する児童養護施設の経営者兼理事長なのだ。

これまで虐待や貧困や病気に苦しむ多くの子供たちを助けてきた。そのために働く部下たちもたくさんいる。

なのに自分のために泣いてくれる人間がこんなにも少ないなんて。

 

しかし、澄子をもっと驚かせることがあった。

葬式だというのにほとんどの参列者は、なぜか嬉しそうだったのだ。

 

「あー、清々したわ。これで施設も風通しが良くなったわ」

「子供たちもクリスマスが来たみたいに喜んでました」

それは澄子の女秘書と保育園の園長だった。2人は澄子からはかなり離れた座席でヒソヒソと話していたが、澄子にははっきりと聞こえた。どうやら死人は感覚が敏感になるらしい。地獄耳とはよく言ったものだ。

 

澄子は怒りにふるえた。

 

それは、彼女たちのヒソヒソ話や少ない参列者より何より自分自身に対しての怒りだった。

「私ってそんなに人望がなかったの? いない方が風通しが良くなるなんて、そんなに嫌われていたの? 子供達まで喜んでるって?私あんなに尽くしてきたのに 」

 

そのとき足元でカタンという音がした。澄子が見ると自分の真下の床に不思議な穴が開いていた。穴の底は真っ暗で何も見えなかった。

「何よ? なんでいきなりこんなところに穴が開くのよ? まぁ、私は幽霊みたいに浮いてるからおっこちゃしないけどさ」

その言葉が終わらないうちに、澄子はあっという間にその穴に吸い込まれてしまったのだ。

 

カタンと音がして穴はすぐに塞がってしまった。そこにいた人は誰も気が付かなかった。

 

そして、澄子はあのワケの分からない暗闇の中て絶叫することになってしまったというわけだ。

 

しかし、不思議な暗闇は長くは続かなかった。

まるで闇の中を疾走する絶叫マシーンがいきなり光の世界へ飛び出すように澄子は転げ落ちた。

その時、誰かと激しく衝突した。

 

不思議なことである。だって、死んでしまった人間にはもう肉体なんてものはないのだ。いわば幽霊になのだ。

幽霊が誰かにぶつかって衝撃を受けるなんてことがあるだろうか?

さっきは自分の体さえ撫でることができなかったではないか。

 

澄子がフラりと立ち上がった。死んでから初めて経験する激しい衝撃に彼女は戸惑っていた。すると声があった。

 

「死んでしまった人同志は、ぶつかったり触れ合うことができるんだよ。生きてる人の体は通りぬけてしまうけどね。でも、怪我もしないし、痛くもないでしょう。まあ、激しいインパクトは受けるけどね」

澄子は驚いて声のする方を見た。

スキンヘッドの長いローブのような着物をまとった子供がそこにいた。

まるでマンガに出てくる一休さんのようだった。

どうやら澄子が衝突したのはこの不思議な小坊主に違いない。

「あんた誰?、さっきから死んだ人間とか言ってるけど、あんた死んだ人間なの? 」

小坊主はニッコリとうなずいた。

その瞬間、澄子はあのものすごく長い悲鳴をあげながら回れ右をしてそこから逃れようとした。

 

でも彼女はすぐに何かに激しくぶつかりまたも悲鳴を上げて後ろにひっくり返ってしまった。

「心配しないで、おばさんだってどうせ幽霊なんだから」

小坊主のその一言に、澄子は少し落ち着くことができた。

「そうか、私死んでたんだ。すっかり忘れてた。でも、幽霊同士がぶつかり合うことはわかったけど、今の衝突は一体何なのよ?」

そして確かめるように、澄子は辺りを見回して驚いた。

「何これ?」

澄子と小坊主の周りは直径10メートルほどの丸い壁に囲まれていた。

その丸い壁は青白い光をうっすらと放っていた。澄子が見上げると、その壁は上空どこまでも続いていて、終わりが見えなかった。澄子はまるで巨大な煙突か井戸の中にでも落ち込んだような気分になった。

「ちょっとここなんなのよ?」

「このチューブはね、天国と地獄とどちらかにしか行けない入り口なんだよ」

「天国と地獄の入り口?」

「死んだ人は大抵ここに来てどっちかの世界に行くんだ。でも、誰でも死ぬことは初めての経験だからどうしていいかわからないでしょ? お母さんだって初めてだよね?」

澄子は頷くしかなかった。

「だから、死んだ人が迷わないために僕みたいな案内人が使わされるんだよ」

「案内人?あなた、どう見たって10歳くらいにかにしか見えないわ、そんな子供が案内人ですって?」

「おばさん、生きていた世界の常識はここでは全く通用しないんだよ。

この世界の案内人はね、子供どころか赤ん坊にだって務まるんだ。だから心配しないで。僕の名前はナナシっいうんだ。よろしくね、おばさん」

「おばさんおばさんって失礼な子供ね。それに何?名前がナナシって?なんか名無しの権兵衛みたいな名前ね。

私も施設に来た子供に名前を付けてあげたこと何度もあったわ。

だってさ母親が平気で子供を棄てる世の中だよ。名前どころか、国籍も分からない子供が何人もうちの施設に放り込まれたわ。

その子達に国籍と誕生日と名前を付けてあげるのが私の仕事だったけど、ナナシなんてセンスのない名前1度だってつけたことないわ。あんたの両親、どうかしてたんじゃないの?」

澄子は明らかにこのナナシという案内人を馬鹿にしていた。ナナシはそんなことは一向に気にしていないようだった。

 

「施設の子供たちに名前をつけたって言ったけど、おばさんは自分の子供に名前をつけたことはないの?」

澄子はギクリとした。そういう質問はいろんな意味で、澄子はされたくなかった。

澄子は生涯独身だったのだ。そのために、自分の子供を産んだことも育てたこともなかった。

「そんなことより、さっさと私を案内しなさいよ。ナナシくんは立派な案内人なんでしょう?」

「そうだけど、おばさんはさ、自分はどっちに行けると思う? 天国と地獄?」

「そりゃ天国に決まってるじゃない」

「自信満々だね。どうしてそう思うの?」

 

「やっぱりあんたは子供ねー。そんなことちょっと考えたらわかるじゃない。私はねー、若い時から、かわいそうな子供たちを助けるために人生のすべて、お金も時間も捧げてきたのよ。そんじょそこらの平々凡々と生きてた人間とは全然違うのよ。

それにね、私はバカじゃないの。このヘンテコリンな、tube見てたら誰だってわかるわよ。だって、このチューブ上はどこまでも伸びてるわ。きっと天国に繋がっているってのは一目瞭然じゃない。でも、地獄の方には全然繋がってないじゃない。井戸の底みたいに床でしっかり塞がってるわ、地獄へなんか落ちようがないじゃないの」

その瞬間2人が立ってい床がガラガラと崩れ落ちた。穴の底に落ちていった崩れた瓦礫はいつまでたっても下に届く音は聞こえなかった。

わかれ道「タカコⅣ」

 

 

タカコや、ヨシロウが眠っているはずのお墓が、リエの目の前で突然消えてしまったのです。そこにあった他のすべての墓石もなくなってしまい。緑色の芝生だけがどこまでも青い空の下に残っていました。

 

それだけではありませんでした。

 

リエの横に立っていたはずの夫も、夫が抱いていた赤ちゃんも、一人息子も、愛する家族がみんな消え失せてしまったのです。

 

一体何が起こったのかはリエには理解できません。

リエは、愛する家族を死に物狂いでさがしました。

 

どこまでも青い空です。

緑色の芝生もどこまでも続いています。

あまりに静かで、爽やかな風が吹き渡っていきます。

しかし家族はどこにもいませんでした。

 

いいえ気がつくとその広大な霊園には人間というものが誰1人いないのです。

さっきまでお墓参りに来ていた家族連などの人々までお墓と一緒に消えていました。

 

リエは、絶望的な叫び声をあげました。

 

これじゃまるで

「私だけが、死んでしまったみたいじゃない」

 

 

するとうしろから声がかかりました。

「そうだよ、おまえはとっくに死んでいたんだよ」

 

何と恐ろしいことばでしよう。しかしそれはあまりになつかかしく優しい声でした。

リエは振り返りました。

「お父さん!?」

ヨシロウでした。

 

リエがヨシロウを見たとき、今度は彼女の中に不思議な変化が起こり始めました。

 

自分の心の中のリエとしての人生、リエとしての思い出が、まるで積み木のようにガラガラ崩れ始めたのです。

 

そして一つ一つ違う思い出が心の中に湧き上がり始めました。



まず思い出したのはあのタカコの納骨の日。

あの時、突然現れたヨシロウをリエは激しく責めました。

「お父さんなぜ家を出たの? お父さんが逃げ出さなければタカコは死ななかったのに」

 

でも

 

リエは、思い出しました。お父さんは子供たちを置いて家出したのではなかったことを。

 

あのタカコの納骨の日の数年前に、ヨシロウは病気で死んでしまっていたのです。

 

さらに思い出しました。

「そうだ、私、タカコの納骨の前にここにいたんだ」

以前、リエはそんなことを思ったことがあります。

 

「あの時も、ここにはどこまでも続く芝生と青い空しかなかった。あの時お父さんは既にここにいた。とっくに死んでたはずなのに」

 

あの時、ヨシロウはとても悲しそうな顔をしてリエにこういったのです。

 

「お前には私が見えるんだね。普通の人には、死んでしまった人の姿は見えないのに」

 

リエは、気がつきました

「そうか、ということは、あのとき私もすでに死んでたんだ。だから私お父さんの姿が見えたんだ」

 

そしてりえはもっと恐ろしいことをに気がついたのです。

第4話おわり

最終話へつづく

死んだらどうなるの? 選べる行き先は4つ!奇跡の魂ツアーに出発しよう

 

わかれ道「タカコⅢ」

 

死んだらどうなるのか?――死生観をめぐる6つの哲学
 

 

ユミコはリエが子供を産めば、そのことが原因でトシキの気持ちがリエに戻ってしまうのではないかと恐れたのです。

だって生まれてくる子供のはトシキなのですから。

 

ユミコには母親のサエコに泣きつきました。サエコは、トシキにこう言いました。

「リエはあんたの会社の部下だよねぇ? あんた、その部下を妊娠させ、結婚の約束までして捨ててしまってたってわけだ」

「だってそれはあんたの娘が俺を誘惑して‥‥」

「トシキさん、あんたリエとの交際を秘密にするように強要したんだってね? 知られたくなかったんだ。だってリエだけじゃないもんね。遊んだ女は」

 

トシキは浮気者でした。リエはその中の一人にすぎなかったのです。

トシキはそれを知られたくはありませんでした。他の女たちにも、会社の上層部にも。

 

トシキは関係するすべての女性に「交際を秘密にするように」強要していたのです。

しかし、サエコにはすべて調べられていました。

 

「そりゃ調べるわよ。自分の娘の結婚相手がいったいがどんな男なのか知っておきたいじゃない? あんたみたいな男をどうして娘と結婚させると思う?」

トシキは答えることが出来ませんでした。

 

「あんた、女だけじゃなくて、お金も大好きなのよね。会社のお金とか‥‥」

トシキはその経理部長補佐という地位を利用して会社の資産を使い込んでいたのです。

サエコはそんなトシキを利用しようと思っていました。

 

トシキは震え上がりました。これまで長年苦労してやっと手に入れた地位です。女なんかで失うわけにはいかない。トシキはそう思ったのです。それでサエコとリエの申し出に乗ることにしました。



ある日、 サエコはリエを自分の家に呼び出しました。今回の結婚騒動の決着をつけたいということでした。

 

おかしいと思いながらも、リエはかつての自分の家に1人で訪問しました。

二階に案内されたリエは、もの影から飛び出してきたトシキに階段から突き落とされてしまいました。

そして転げ落ちてきたリエのお腹をサエコとユミコが蹴りつけ踏みつけました。

 

しかしリエは何とかその家を飛び出し、近所の人々に助けを求めました。

近所の人はリエのことを知っていました。サエコやユミコがリエにひどい仕打ちをしていたことも。

血だらけになりながら悲鳴を上げるリエを見て人々は慌てて救急車と警察を呼んだのです。

リエは近所の人に助けられたとき、安心して救急車も持たず気を失ってしまいました。

 

リエが目を覚ましたのは病院のベットの上でした。そのときには全てが片付いていました。

 

サエコもユミコもトシキも傷害と殺人未遂で警察に捕まったのです。ほとんど現行犯でした。

その過程でトシキの横領も発覚し、トシキは職場を解雇され他の2人と一緒に刑務所に入ることになりました。

 

これまでリエを苦しめてきた人々、そしてリエを裏切った人は1人もいなくなりました。

 

でもリエは少しもうれしくありませんでした。

 

あわれなリエは彼らのひどい暴力によってお腹の赤ちゃんを失ってしまったのです。

 

リエがタカコの後を追うと思ったのはその時でした。

 

彼女はいじめやトシキの裏切りには耐えることができましたが、唯一の肉親である赤ん坊を失ったことには耐えられなかったのです。

 

彼女は、ほとんどの母親がそう感じるように、幼い生命が失われたのは

「自分の責任なんた。私が守ってやれなかったからなんだ」

そう思い込んだのです。

 

「あの子のところへ行こう。そしてお母さんやお父さんタカコのいるところへ」

 

リエがタカコと同じ屋上に立ったのはこんな理由からでした。

 

リエは屋上の手すりをつかみ、自分が飛び降りようとする下界を見下ろそうとしました。

 

しかし彼女はその風景を見ることができませんでした。熱い涙があふれ出し、何もかもがぼやけてしまったのです。

 

クリスマスの灯りが涙でにじんでまぶたのうらで不思議な模様を作っています。

 

下界が見えなくなったので、リエはもう怖くはありませんでした。

手すりから体をぐっと乗り出しました。

そのとき涙でぼやけた風景の中に、突然死んだはずのヨシロウが現れたのです。

その瞬間リエの体が固まり、

「お父さん!?」

しかしヨシロウは何も答えませんでした。ただ黙ってリエを見つめているだけです。

「お父さん、天国にいるんでしょう? なのにどうしてそんなに悲しそうな顔しているの?」

リエは、飛び降りることが出来ませんでした。



そのクリスマスの夜からさらに数年が経ちました。

 

リエは生きる決心をしたのです。

 

でも自殺をやめていくら生きる決心をしたからといって、これまでの苦労や悲しみが消えたりはしません。

 

それでもリエは生き続けました苦しみに耐え続けたのです。そうしているうちに、苦しみはだんだん軽くなっていきました。

 

それはリエから苦しみや悲しみが取り去られたわけではなく、リエ自身が強くなったからでしょう。

こんなことは人生にはよくあります。

 

リエは新しい仕事を見つけ、そして新しい出会いがありました。

 

リエは結婚しました。

新しい夫は、何よりリエの幸せをとても喜んでくれる人でした。そしてリエをいつも喜ばせ、笑わせてくれました。

 

やがて赤ちゃんが生まれました。最初はたくましい男の子でした。その子が3歳の時に今度はかわいい女の子が生まれました。

 

それまでの、リエの人生の中で考えられなかった幸せが訪れたのです。

 

ある時、リエは家族を連れてお墓参りに行きました。自分の幸せをタカコやヨシロウに、そして顔も知らない母親に報告したかったのです。

 

どこまでも続く緑色の芝生、整然と並んだ白い墓石のあの霊園。

 

その日は空は青く、何人かの家族連れや人々がお墓参りに来ていました。

 

リエは、家族といっしょにタカコとヨシロウの墓石の前に立ちした。

「タカコ見て、私の家族よ。私もタカコみたいに自殺しそうになったけど、でも思いとどまったの。

そしたら私、それまでになくしてしまったものを、ぜんぶ取り戻したわ。あのときは、生きていればこんなに幸せがあるなんて思いもしなかった‥‥」

 

リエがそこまで話したとき、、突然不思議なことが起こりました。

第3話おわり

第4話につづく

 

わかれ道「タカコ最終話」

 

 

「だったら私はリエじゃない。リエなんて最初からいなかったんだ。だって私は双子なんかじゃない、一人娘だったんだから。そうよ、私はタカコ、タカコなんだわ」

 

ヨシロウが大きくうなずきました。

「やっと思い出してくれたようだね。そう、お前は、あの屋上から飛び降りて死んでしまったタカコなんだ。リエなんて妹は最初から存在していなかったんだ」

 

ヨシロウがそう言った瞬間、これまでリエだっタカコはすべてをはっきりと思い出したのです。

 

サエコと連れ子のユミコにいじめられていたのもタカコ。

婚約していた恋人をユミコにとられたのも、階段から突き落とされてお腹の子を流産したのも、そしてあのビルの屋上から飛び降りて自殺したのも私タカコ。



「全て夢だったのね。愛する夫も子供たちも、…」

ヨシロウ「お前はそれを選んだんだ。もう一度やり直すことを」

 

タカコはビルから飛び降りて命を失ってから、ここに来たのです。

そこは自分が埋葬されたお墓でした。

しかしタカコが目覚めたときそこにはお墓なんてものはありませんでした。死んだ人の魂にはお墓なんて必要なかったからです。

青い空と緑色の芝生はどこまでも続く場所、そこは死んだ人にとっては次の世界への入り口でした。

次の世界と言う言葉にはいろいろな意味があります。ある人には天国であり、ある人には地獄です。

その次の世界の入り口に立った人は、自分がどちらに行くのかはその人にはわかりませんでした。それはその人がこれまで生きてきた人生によるのです。

 

タカコは決して地獄に落ちるような悪人ではありませんでしたが。人生の苦しみに負けて死ぬことを選んでしまいました。

人の命を奪ってしまった人は天国に行くことができません。それは自分の命でも同じです。

 

しかし、自殺した人には1つの救済の道がありました。

それが、別の人間として生まれ変わり、自分が自殺したのと同じ苦しみをもう一度受けることでした。

 

別の人として生まれ変わるのですから、それまでの自分の記憶は消されてしまいます。

そして同じ試練を受けて、もしそれでも死ぬことを選べば、天国に行くことができません。

しかし、苦しみに耐え生きることを選べば、天国への扉が開かれるのです。

 

自殺してここに来たタカコは、そのことを先に死んでしまった父親のヨシロウから聞いていたのです。

ヨシロウはタカコを次の世界へ案内する役目を負っていました。

すべて死んだ人を次の世界に導くのは、先に死んでしまった親族です。決して名前も知らない天使や死神では無いのです。

 

だってその方が、初めて死んだ人?にとってみれば死神なんかよりはるかに安心できるでしょう?



自殺してここに来たタカコは父親のヨシロウから次の世界に行く条件を教えられたのです。

 

そして彼女はもう一度やり直してみることを選んだのです。

 

それで、それまでのタカコの記憶は全て消され、新たにリエという全く別人に生まれ変わったのです。

そしてリエとなったタカコは、その新しい人生で死ぬことを選ばなかったので、天国への扉を開くことができたのです。

 

しかしそれはタカコにとって決して心から喜べるものではありませんでした。

 

「でも、ひど過ぎる。苦しすぎるわ。私は確かに生きる方を選んだ。そして考えられないような幸せを得た。なのに、それが夢だったなんて」

「お前がもし、本当の人生で死ぬことを選ばなかったら、あの家族といつまでも一緒に暮らすことができただろう。でもお前は生きることを選ばなかったので、あの幸せを得る機会を永遠に失ってしまったのだ」

 

タカコは不思議に思った。

「だってあれは夢だったんでしょう。覚めてしまえばとても悲しい夢だけど、現実の事では無いんでしょう?」

「そうじゃないんだよタカコ。君と出会った夫、生まれた子供たち。あの人たちは君が生きていれば本当に出会い、本当に生まれてきた人たちなんだよ」

タカコは驚きました。あの出来事は、あの人々は夢なんかじゃなくて現実に存在していると言うのでしょうか?

タカコはヨシロウにすがりつきました。

「あの家族は現実の家族なの? だったら教えて、どうしたらあの人たちにもう一度会えるの?」

「会えないだろう、もう二度と。もし会えたとしても彼らはお前の事は何も知らないだろう。あの人々はお前が生きていれば会うことができて結婚してお前を母として生まれてきたであろう人々なんだよ。」

「でもリエが自分の人生を断ち切ってしまったたので、彼らはもう二度とお前と会うことも、お前から生まれてくることもない。残酷なことを言うようだが、彼らは別の人と結婚し別の人を母とし、それぞれ別の家族の一員として暮らしている。」

「そんな!」

タカコは悲しみの叫び声をあげ泣き崩れました。

「ひどいひど過ぎる。苦しすぎるわ。これじゃ私が自殺したときよりはるかに大きな苦しみじゃないの」

泣き叫ぶタカコにヨシロウは優しく言いました。

「人は自殺をしてもその受けていた苦痛から逃れることができないし、生きていれば受けていたであろう大きな幸せも決して得ることができないのだよ」

 

「そんなことわかんないじゃない。自殺を止めて生き続けたからってその人が幸せになるか不幸になるかなんて誰にもわからないよわ」

「その通りだよ。人が不幸が不幸に幸せになるかなんて誰にもわからない。あの夢の家族は過ぎてしまえば1つの夢だったかもしれない。

しかし人は生きれば、幸せになる機会も不幸になる機会もいつまでもある。途中で死ぬ事はその機会を投げ捨ててしまうことなんだ。」

タカコはようやく理解しました。自分が自殺したことで失ったものが何であるかを。

 

「苦しかったかもしれない。しかしお前はその苦しみを通して、自分の弱さを乗り越え、罪を悔い改めることができたんだ」

そしてヨシロウはとても優しい眼差しをタカコに向けて言った

「さぁお前のためにすでに天国の扉は開いている。タカコさぁおいで」

 

タカコはあたりを見回しました。そこには緑と芝生と青い空がどこまでも続くだけでした。

「でも何もないじゃない。扉もドアもどこにも」

「上を見てごらん」

タカコは空を見上げた。

それは不思議な空だった。空はどこまでも青くそこには雲ひとつなく太陽さえも輝いていなかった。

その中に小さな丸いリングがあった。それは白く輝いていた。

そのリングはタカコが見上げているうちにだんだんと大きくなり、そのリングの中に別の世界があった。そこには大勢の人たちがいた。

 

しかしその多くの男女は空中の中にいるのに落ちてくる事はなかった。彼らはとても高いところから見下ろしているようだったが、タカコにはそのすべての人間の顔を一人一人見分けることができた。

生きている世界では遠く離れた人間の表情を見分けることなど決してできないが、この世界ではできるのだ。

彼らは皆微笑んでいた。光輝いているような笑顔だった。

その中に特別な女性がいた。たかこはその女性のを知っていた。

しかし不思議に思った。たかこは生きている世界でその女性の顔を見た覚えがなかったからだ。

 

でも「あれはお母さんね? 私を産んで幼い時に死んでしまったお母さんなのね?」

 

タカコはその女性が自分の母親であることがはっきりとわかった。

 

彼女の幼い頃に死んでしまい、生きているときには忘れてしまっていた顔だったのに

「死んでしまった人間には、どのような記憶喪失もないからね」

ヨシロウがそう教えてくれた。

あのリングの中から見下ろしている顔は、みんなたかこを愛してくれた人々だけだった。

「そうかわかったわ。あそこが天国なの?」

「憎しみや怒りや汚れというものが全くない世界。愛と美といつくしみだけがあって、それがいつまでも続く世界だね」

ヨシロウからそう教えられた瞬間、たかこは自分も早くその世界の中に入りたいと思いました

しかしさっきまで一緒だった家族に対して大きな未練もありました。

 

「お前は、もうリエではなくタカコなのだよ

。お前はこれからタカコとしての次の世界での生活が始まるのだ」

ヨシロウがそういった瞬間、タカコはリエとしてのすべての記憶を失ってしまいました。そして自分が自殺したことも心の中からなくなってしまったのです。

ヨシロウはこうつぶやきました

「心から償った罪は消えてしまうんだ。自分の心の中からもね」

タカコが不思議そうな顔をしてヨシロウを見つめました。

「償った罪って何のこと? 私何か悪い事したかしら?」

もうタカコの心の中にはリエとしての思いでも自分が自殺したときの苦しみも、家族を失った悲しみも何もかも覚えていないようでした。

「さぁおいで」

 

ヨシロウが娘であるたかこの手を取りました。たかこはにっこりと笑いました。その顔はこの世の苦しみを全て洗い流された喜びに溢れていました。

 

2人はあの大きな光のリングの中に吸い込まれていきました。

そして2人を飲み込むと光のリングは大変小さくなりやがて閉じてなくなってしまいました。

 

すると今まで青い色だけだった大空にもくもくと白い雲が湧き上がってきました。

緑の芝生にはたくさんの墓石が戻っています。

 

の入り口は次の世界へのまた入り口は、この世の霊園に戻ったのです。

 

終わり。

 

 







わかれ道「タカコⅡ」

 

 

それから数年の時間が過ぎました。

 

あるクリスマスに近い、寒い夜のことでした。

 

街は、クリスマスイルミネーションの美しい点滅に飾られいます。

その街の中では特に目立つ高層ビルの屋上にリエはいました。

屋上は冷たい北風が吹いていました。

 

リエは死ぬつもりでした。姉のタカコの後を追いたいと思っていたのです。

そこはタカコが飛び降りたのと同じ建物でした。

 

タカコは屋上の手すりから下界のクリスマスのイルミネーションを見下ろしながら、これまでのことを思い出しました。

 

あの納骨の日からすぐに、ヨシロウが死んでしまいました。一人暮らしのアパートの部屋で冷たくなっているところを大家さんに発見されたのです。

 

一人ぼっちになったリエは、仕事を見つけサエコたちの住むあの家を出て一人暮らしを始め、ました。

 

それ以降当然ですが、サエコとユミコのいじめはなくなりリエは穏やかな日を過ごすことになりました。

 

サエコたちとはもう二度と会うことはあるまいと思っていました。

 

そのうちリエはトシキという同じ会社の上司と婚約しました。

トシキはまだ30にもならないのに、経理部の部長補佐でした。独身なので部長にはなれませんでしたが、所帯を持てば部長に昇進できるだろうとウワサされていました。やり手だったのです。

 

トシキはそれほど有能で、イケメンで笑顔がやさしい男でした。

しかし、トシキは、自分たちが付き合っていることを会社では口外しないようにリエに求めました。

会社では別に恋愛禁止ではありませんでしたから、トシキがなぜ2人のことを秘密にしたがるかはリエにはわかりませんでした。

 

これまで寂しい人生を送ってきたリエにはあまり気になりませんでした。むしろ男の人ってみんなこういうものなんだろうなぁと思っていました。

 

リエは結婚の報告をサヨコたちにするつもりはありませんでしたが、

「一応礼儀だから」

というトシキのたってののぞみで挨拶に行くことになりました。

 

しかしそれが間ちがいでした。あいさつの場に同席したユミコに、トシキは奪われててしまったのです。

イケメンで、大きな会社に役付きで金回りがいいトシキは、派手好きなユミコやその母親のサエコにとって、格好の「優良物件」だったのです。

 

その後ヨシロウはユミコやサエコの言いなりになり、リエに別れを告げたのです。

 

義理の妹や、愛する婚約者に裏切られ、それを婚約者から直接聞かされたリエの気持ちはどんなだったでしょう?

しかもそのとき、リエのお腹の中にはトシキの子供がいたのです。

 

あまりにも理不尽な出来事です。しかしリエはくじけませんでした。

 

父と母そして、タカコまで失ってしまい、もうリエには肉親は1人も残っていません。しかし彼女のお腹の中にはたった1人の肉親がいるのです。

 

それはリエにとって唯一の希望でした。

「私はこの子を育てていこう。たとえ自分が一人ぼっちになったとしても、この子だけは幸せに育ててみせる」

 

リエは固く決心しました。

第2話おわり

第3話につづく