「何でこんな目に合うのよ!?私もう死んでるのよ!」
澄子(享年55歳)は絶叫した。
無理はなかった。
そのときの澄子は上下左右が全く分からない真っ暗な空間の中を猛スピードで疾走していたのだ。
澄子は自分が急激に移動していることだけは理できた。
しかし、落下しているのか上昇しているのかわからなかった。こんな恐ろしいことはない。
澄子は悲鳴を上げ続けた。死んだ人間は呼吸をしないので、澄子はいつまでも途切れることなく悲鳴を上げ続けることができた。まるでソプラノのキーをずっと押され続けているオルガンのように澄子は悲鳴を上げ続けた。
澄子は自分が死んでいることは知っていた。
彼女が最初に目を覚ましたのは病院だった。傘下の児童養護施設を視察訪問している時に心臓発作で倒れたのだ。
医師がベットに横たわる澄子の脈を確認しながら「ご臨終です」と宣言していた。
その光景を澄子自身が見下ろしていた。
彼女は臨死体験をしていたのだ。
不思議とショックはなかった。
むしろ、
「死んでしまったらさくら堂の栗まんじゅうをもう食べられないかもしれない」
などとヘンなことを考えていた。
病院から葬式会場に至るまで澄子は自分の遺体にユラユラと付き添っていた。
葬儀会場で澄子は自分の棺のワキにひざまずいた。その姿勢のまま少しだけ浮き上がって花に飾られた自分自身の亡骸を眺めていたのだ。
「納棺師もっと綺麗に死化粧してくれればいいのに」
澄子は文句を言いながら棺の中の頬を撫でようとしたができなかった。澄子の指は遺体の頬をすりぬけてしまったのだ。
「やっぱり栗まんじゅうは無理そうね」
葬儀会場は教会堂だった。パイプオルガンの伴奏と聖歌隊のコーラスを背景に壇上の神父様がお祈りをささげていた。
しかし、神父様も喪服の参列者たちも、棺の遺体そばのもう1人の澄子には気づいていなかった。
澄子は気に入らなかった。
自分が死んだというのに、病院に駆けつけた人間も、葬式の参列者もあまりにも少なかったからだ。
澄子は全国的に展開する児童養護施設の経営者兼理事長なのだ。
これまで虐待や貧困や病気に苦しむ多くの子供たちを助けてきた。そのために働く部下たちもたくさんいる。
なのに自分のために泣いてくれる人間がこんなにも少ないなんて。
しかし、澄子をもっと驚かせることがあった。
葬式だというのにほとんどの参列者は、なぜか嬉しそうだったのだ。
「あー、清々したわ。これで施設も風通しが良くなったわ」
「子供たちもクリスマスが来たみたいに喜んでました」
それは澄子の女秘書と保育園の園長だった。2人は澄子からはかなり離れた座席でヒソヒソと話していたが、澄子にははっきりと聞こえた。どうやら死人は感覚が敏感になるらしい。地獄耳とはよく言ったものだ。
澄子は怒りにふるえた。
それは、彼女たちのヒソヒソ話や少ない参列者より何より自分自身に対しての怒りだった。
「私ってそんなに人望がなかったの? いない方が風通しが良くなるなんて、そんなに嫌われていたの? 子供達まで喜んでるって?私あんなに尽くしてきたのに 」
そのとき足元でカタンという音がした。澄子が見ると自分の真下の床に不思議な穴が開いていた。穴の底は真っ暗で何も見えなかった。
「何よ? なんでいきなりこんなところに穴が開くのよ? まぁ、私は幽霊みたいに浮いてるからおっこちゃしないけどさ」
その言葉が終わらないうちに、澄子はあっという間にその穴に吸い込まれてしまったのだ。
カタンと音がして穴はすぐに塞がってしまった。そこにいた人は誰も気が付かなかった。
そして、澄子はあのワケの分からない暗闇の中て絶叫することになってしまったというわけだ。
しかし、不思議な暗闇は長くは続かなかった。
まるで闇の中を疾走する絶叫マシーンがいきなり光の世界へ飛び出すように澄子は転げ落ちた。
その時、誰かと激しく衝突した。
不思議なことである。だって、死んでしまった人間にはもう肉体なんてものはないのだ。いわば幽霊になのだ。
幽霊が誰かにぶつかって衝撃を受けるなんてことがあるだろうか?
さっきは自分の体さえ撫でることができなかったではないか。
澄子がフラりと立ち上がった。死んでから初めて経験する激しい衝撃に彼女は戸惑っていた。すると声があった。
「死んでしまった人同志は、ぶつかったり触れ合うことができるんだよ。生きてる人の体は通りぬけてしまうけどね。でも、怪我もしないし、痛くもないでしょう。まあ、激しいインパクトは受けるけどね」
澄子は驚いて声のする方を見た。
スキンヘッドの長いローブのような着物をまとった子供がそこにいた。
まるでマンガに出てくる一休さんのようだった。
どうやら澄子が衝突したのはこの不思議な小坊主に違いない。
「あんた誰?、さっきから死んだ人間とか言ってるけど、あんた死んだ人間なの? 」
小坊主はニッコリとうなずいた。
その瞬間、澄子はあのものすごく長い悲鳴をあげながら回れ右をしてそこから逃れようとした。
でも彼女はすぐに何かに激しくぶつかりまたも悲鳴を上げて後ろにひっくり返ってしまった。
「心配しないで、おばさんだってどうせ幽霊なんだから」
小坊主のその一言に、澄子は少し落ち着くことができた。
「そうか、私死んでたんだ。すっかり忘れてた。でも、幽霊同士がぶつかり合うことはわかったけど、今の衝突は一体何なのよ?」
そして確かめるように、澄子は辺りを見回して驚いた。
「何これ?」
澄子と小坊主の周りは直径10メートルほどの丸い壁に囲まれていた。
その丸い壁は青白い光をうっすらと放っていた。澄子が見上げると、その壁は上空どこまでも続いていて、終わりが見えなかった。澄子はまるで巨大な煙突か井戸の中にでも落ち込んだような気分になった。
「ちょっとここなんなのよ?」
「このチューブはね、天国と地獄とどちらかにしか行けない入り口なんだよ」
「天国と地獄の入り口?」
「死んだ人は大抵ここに来てどっちかの世界に行くんだ。でも、誰でも死ぬことは初めての経験だからどうしていいかわからないでしょ? お母さんだって初めてだよね?」
澄子は頷くしかなかった。
「だから、死んだ人が迷わないために僕みたいな案内人が使わされるんだよ」
「案内人?あなた、どう見たって10歳くらいにかにしか見えないわ、そんな子供が案内人ですって?」
「おばさん、生きていた世界の常識はここでは全く通用しないんだよ。
この世界の案内人はね、子供どころか赤ん坊にだって務まるんだ。だから心配しないで。僕の名前はナナシっいうんだ。よろしくね、おばさん」
「おばさんおばさんって失礼な子供ね。それに何?名前がナナシって?なんか名無しの権兵衛みたいな名前ね。
私も施設に来た子供に名前を付けてあげたこと何度もあったわ。
だってさ母親が平気で子供を棄てる世の中だよ。名前どころか、国籍も分からない子供が何人もうちの施設に放り込まれたわ。
その子達に国籍と誕生日と名前を付けてあげるのが私の仕事だったけど、ナナシなんてセンスのない名前1度だってつけたことないわ。あんたの両親、どうかしてたんじゃないの?」
澄子は明らかにこのナナシという案内人を馬鹿にしていた。ナナシはそんなことは一向に気にしていないようだった。
「施設の子供たちに名前をつけたって言ったけど、おばさんは自分の子供に名前をつけたことはないの?」
澄子はギクリとした。そういう質問はいろんな意味で、澄子はされたくなかった。
澄子は生涯独身だったのだ。そのために、自分の子供を産んだことも育てたこともなかった。
「そんなことより、さっさと私を案内しなさいよ。ナナシくんは立派な案内人なんでしょう?」
「そうだけど、おばさんはさ、自分はどっちに行けると思う? 天国と地獄?」
「そりゃ天国に決まってるじゃない」
「自信満々だね。どうしてそう思うの?」
「やっぱりあんたは子供ねー。そんなことちょっと考えたらわかるじゃない。私はねー、若い時から、かわいそうな子供たちを助けるために人生のすべて、お金も時間も捧げてきたのよ。そんじょそこらの平々凡々と生きてた人間とは全然違うのよ。
それにね、私はバカじゃないの。このヘンテコリンな、tube見てたら誰だってわかるわよ。だって、このチューブ上はどこまでも伸びてるわ。きっと天国に繋がっているってのは一目瞭然じゃない。でも、地獄の方には全然繋がってないじゃない。井戸の底みたいに床でしっかり塞がってるわ、地獄へなんか落ちようがないじゃないの」
その瞬間2人が立ってい床がガラガラと崩れ落ちた。穴の底に落ちていった崩れた瓦礫はいつまでたっても下に届く音は聞こえなかった。